小山田氏の件について

小学校は地元の公立だった。その小学校には、全学年から知的障害のある児童を集めたクラスがあり、特別なクラス名を割り当てられていた。ここでは養護学級と呼ぼう。

その養護学級の子供達と我々一般生徒が交流する機会がたまにあり、課外活動なんかで一緒に行動することもあれば、一般生徒がその子達に授業?をするような場面もあった。なにぶん、もう20年くらい前のことなので記憶の細部に混同があるかもしれないが、そのような交流の場面で今でも覚えてる事がある。

 

確か、一般生徒と養護学級の生徒が11でペアを組み、一般生徒が養護学級の生徒の学習の手伝いをする、というようなことをしていた。僕の相手はダイちゃん(仮名)で、僕とはかろうじて意思疎通ができるかできないか程度の障害の子だった。確か数年、年上だった気がする。

平仮名を一生懸命書くダイちゃん。一文字一文字褒める僕。一文字一文字に時間がかかるから、そうでもしないと何もすることが無い。

 

「そう、それは『こ』!よくできたね~」と僕が言ったその時、それまで基本的に無反応だったダイちゃんが出し抜けに

「ちんこ!?」とテンポ良く返してきた。

 

意表をつかれて爆笑する僕。小学生男児なので当然だ。

 

その瞬間までおずおずと一文字ごとに褒める作業を繰り返すことしかできていなかった僕は、初めてそれ以外に意味のあるコミュニケーションができた事が少し嬉しかったし、ダイちゃんも無事ウケてちょっと嬉しそうだった気がする。

けれど、すぐに養護学級の先生がやってきて「ちんこで笑わないでほしい」と言われてしまった。

小学生の僕は思った「学校の授業中だから注意されて当然か。けど、これくらいでしかコミュニケーションが取れないんだから、意味のある交流をするためには渾身ギャグのちんこに対してスルーはむしろ失礼なはず。それが分からない先生はダメだなぁ」。
そんな感じでそれ以降「ち」と「ん」と「こ」が出てくるたびに「ちんこ!」と言うダイちゃんに対して先生にバレないように小さく笑う僕という構図が出来上がった。

 

けれどもしばらくして結局バレて、先生に二度めの注意をされてしまった。

 

「ちんこで笑っていると、本人がそれを覚えてちんこを連呼するようになってしまう。だから本当に笑わないで欲しい。」

 

ハッとした。

 

全く持ち合わせていなかった視点で注意された僕はその場では納得して、最後の方はまた一文字一文字褒めながら、たまに「ちんこ!」と言われてもポーカーフェースで「そうだね~」とか「その言葉はダメだよ~」とか言って流しながらその日の交流は終わった。ダイちゃんはちょっと悲しそうだった。

その日の帰り道、この出来事を反芻しながら小学生の僕は怒っていた。

結局、この交流の意義が見出せなかった。ただただ、学習課題の写経を横で見ながら「よく書けたね」と機械のように繰り返すことだけが求められたのだろうか?これは双方にとってどのようなメリットがあるのだろう?そして、唯一の機械的なやりとり以外だったちんこギャグは先生の頭が硬いせいで封じられてしまった。なんたる無意味!形だけの「交流」!

「覚えちゃうからダメ」という理由づけも「それ含めて大人になるまでに教えれば良いじゃん、僕たちはあの時点で笑ってたんだから邪魔するな」と感じた記憶がある。自分自身が教育過程の真っ只中にいる小学生にとって、他の児童への教育的配慮という観点は、腑に落ちにくかった。

この交流イベントがどのような制度で運営されていたかは一切記憶に残ってないが、この日以降この「学習手伝い」的な交流イベントは僕は二度とやらなかった。
廃止になったのかもしれないし、僕が手を挙げなくなったからかもしれない。単に一年に一度○○年生がやる、という仕組みだったのかもしれない。

結局ダイちゃんとは進路の違いで卒業以降会ったことはない。



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以上が知的障害を持つ児童との交流で最も印象に残ってる出来事である。
子供同士で片方に知的障害がある場合、当然ながら通常の意思疎通はできないので、何かしら共有できる「ネタ」があると交流がスムーズになる。それがダイちゃんの場合はちんこだったわけだ。確かに下ネタは普遍的に強力だ。僕はコントを学生時代にちょっとやってたし、言葉が通じにくい外人との交流もちょくちょくあるから、よく知ってるんだ *1

 

小学生の間は、ちんちんって叫んで笑うのなんて可愛いもんだから問題はそこまで顕在化しない。けど、これが中学生くらいになって言葉だけじゃウケが取れなくなったら、どう変化しうるか。

「ちんこ」って言いながらポロンと実ブツを出す、なんてのはいかにもありえそうな「進化」だ。ちんこってワードだけでは見向きもしない中学生も、これには大爆笑だろう。

「今日の夕飯、多分メンチカツだわ。テンション上がるー」
「メンチンコ?(ポロン」

これを日常で突然やられたら今でも思いっきり吹き出す自信がある。30歳になっても心の男子小学生は健在だ。

 

 

 

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五輪開会式の担当者として、小山田氏の件がネットで話題になり、炎上し、彼は結局辞任した。彼を批判すること自体はこの文章の目的ではないので脇に置いておこう。

 

 

彼の「いじめ」の内容を精査することもここでは避けたいが、インタビュー記事の中での障害児童へのいじめの記述を一箇所だけ引用すると

ジャージになると、みんな脱がしてさ、でも、チンポ出すことなんて、別にこいつにとって何でもないことだからさ、チンポ出したままウロウロしているんだけど。

とある。
気づいてもらえるとありがたいが、この「コミュニケーション方法」(敢えてそう呼ぶ、ちんこを出させてそれを笑う)なんて、小学生の僕が実際に良かれと思ってやってこと(ちんこ発言で笑う)が、中学生レベルにエスカレートしうる先(ちんこを出されて笑う)と、本当に紙一重な気がする。

 

 

 

 

 

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今でも、20年前のあの交流授業で、何が正解だったのか分からない。先生たちがどのような「成功像」を頭の中で描いていたのかも今となっては知る由もない。仮に今の自分があの時の先生の立場に置かれたとして、どうするべきかも分からない。教育者でもないから当たり前か。

けれども、20年経っても思い出すくらい強烈な出来事だったことは間違いがなくて、それはちょっと予想外の方向に自分の思考を進めた。

最初、小山田氏の件を知った時は、多分平均的日本人よりも「怒った側」だと自分では思っている。障害者に勇気を与えるためのオリパラ、全ての人のための all-inclusive が主要理念のオリパラ。コロナ禍を押してまで(建前上)理念を優先し行うオリパラ。それを華やかに彩る開会式の音楽製作者が、過去に障害者いじめをし反省の色なく大人になってから露悪的に嘲笑いながら語る人物であるなど、悪い冗談にも程があって、即刻解任は当然、仮に辞めなかったら日本の恥だとまで本気で思った。全世界の障害当事者や家族、友人、関係者、、彼らがそんな人物から勇気をもらえるはずも当然なく、そんな事態を許してしまうのなら顔向けができないとはこのことだ *2

 

けれども同時に小学校の時のダイちゃんのことも思い出した。良かれと思いながらダイちゃんの「ちんこ」発言で笑っていた小学生だった僕は、もしダイちゃんと同じ中学に行き、仮に定期的な「交流」の場が設けられ、普段話さないなりにその場では「交流」を試み続け、色々とボタンの掛け違いやふとしたエスカレーションが続いたら、ハタから見れば小山田氏とそこまで違わない状況になっていたかもしれない。

 

 

月並みで申し訳ないが、小山田氏を「極悪人、想像もつかない変態サイコパス」などとして断罪することは簡単だ。けれども、そうやって切り捨てるよりも「どういう流れでならそのような状況になりうるのか」を想像して、それを防ぐ方法を皆で議論した方が良いと思う。誰でも、は言い過ぎかもしれないが、自分を含めてたくさんの人が小山田氏的なポジションに立つ可能性はあったと思う *3

 

この想像力の余地を与えてくれた、という点では、20年前の経験は貴重だったのかもしれない。

*1:例えば、英語が不得手なロシア人男性と仲良くなる術として「スーカ、ミニェート」という呪文を筆者は覚えている。クッソ汚い言葉なので常識人は真似しないように。

*2:実は「元ソース」である96年のインタビュー記事を実際に読んだ後には少しだけ意見が変わった。しかし主題から逸れるので割愛する。

*3:極端な例かもしれないが、障碍者と一切接したことのない状態でなら小山田氏を断罪することは簡単である。少なくとも直接的には自分が彼と同様の罪を犯したことがないことが明確だからである。そのような状態よりかは、自分のようにほんの僅かでも交流経験を持った上で他山の石とする態度の方が健全だと個人的には思うが、簡単には結論を出せない。